「サイッテー。もう2度と顔見せないで」

ばちん、と横っ面を叩かれて、その赤くなった左頬に左手を添えて、ぽかんと立ち尽くしている可哀想で間抜けで仕方の無い男を、私は紅茶をすすりながら見ていた。

事はこうである。男のもとに女がやってきた。一言二言、言葉を交わした。男と女は付き合っているらしい。女は部屋を一瞥した。私の姿が目に入った。女は顔を顰めて、男に問い質した。何、あの女は、とかなんとかそんな感じのことを。男は疑われるようなことはないということを説明しようとしたが、女は短気。最早聞く耳を持たなかった。
―――そして、この男、成歩堂龍一は、先程痛そうなビンタを彼に食らわせた女性にふられた、と。
「あーあ、やっちゃった」
私はぽつりと呟いて、紅茶を啜る。私は一度も彼の彼女を見たことがなかったが、今の一度でどういう性格をしているのかが解った。彼女は綺麗だったが、短気で強気で勝気、そして自分の美貌を鼻にかけるところがある。適当な言葉でころっと落としたのだろう、彼を。
どうでも良さそうに成歩堂から視線を外して新聞を読む。また今日も事件は尽きない。毎日毎日、よくもこう凶悪犯罪が繰り返されるものだ。少しは平和な文面を目にしたいものである。
「今日は強盗殺人ねえ……あ、例の草案も載ってる」
どこで強盗が起きようが、お偉い方が何だかんだと話し合っていようがはっきりいって今のところどうでも良かったりする。ただ読むのはなかなか面白い暇潰しになる。新聞記事集めでもしようか。世の中の動きが解るし、もし弁護の依頼がきたときも何かの参考になるかもしれない。
「お、今日7時からトノサマンの特番だって。……龍一、いつまで突っ立ってるの?」
ああそうだね、うん、そうなの、ああそう。何だっていいからそろそろこういう反応をしてくれないだろうか。成歩堂龍一はいつまでも同じ位置で左頬を押さえていた。私は溜息をつく。
「別に感傷に浸ろうが何しようが知ったことじゃないけど仕事は放り出さないでね。安月給で働いてやってるこっちの身にもなりなさいっての」
テレビ番組欄を一通り見終えると新聞を捲って、紅茶を啜る。あと数分したら仕事を始めなければ。この法廷でしか使えないツンツン頭に書類もデータも任せられない。私の素晴らしい仕事ぶりに応じた給与がないのには些か不満を感じるが、3度の飯と寝床を確保してくれるのだから文句は言えない。
「あんたいつまでもそうしてるなら空いた右にも平手食らわすよ」
動く気配のない奴に冷めた声でそう伝えると、漸く反応した。
「人が傷付いてる時に追い討ちかけるなよ!」
成歩堂がどかどかとこちらに寄って机をばんと叩き、怒声を轟かせる。私は新聞から視線を外し、成歩堂を見遣る。
「仕事をしてくれなきゃ困るでしょう。大体、私にはどうしようもないし」
しれっと答えてやれば、成歩堂はぐっと押し黙る。確かにどうしようもないのだろうと思ったらしい。そういう風にすぐ納得してくれるので話が早くてこの男とはやりやすい。日常生活においての精神的主導権は基本的に私にある。仕事上では勿論部下でしかないが。
「そんなことしてないで新しい相手を見つけなさい。忘れたら良いの」
さっさと切り替えて情報のひとつやふたつ集めろというのを雰囲気で伝えて、私はまた紅茶を啜った。新聞は相変わらず物騒な事件を伝えていた。
「そんなこと言ったって、……何処かに良い相手、居ないかなあ……」
「何言ってるの、良い女なら居るじゃない此処に」
「両頬腫れ上がらせようとしてるような冷酷人間は願い下げだ!」
「…………」
ああ、そうやって。お前は気付いていないのだ、私が如何にお前のことを考えているのかに。
「……な、何だよ」
今だって、選んだのは辛辣なものだったが、言葉を浴びせて、気を紛らわしてやったというのに。たった今、この瞬間お前は辛い気持ちをほんの少し忘れていたくせに。
「……別に?」
どうせ私は可愛げのない仕事人間だ、それが何か。いけないのか、悪いのか。お前が平手打ちを食らって私は喜んでいたさ、そういう冷酷な人間だ。自分にチャンスが訪れたと、内心嬉々としてそれを見ていたさ。
ふん、と新聞ばかりを瞳に写して紅茶を啜る。普通の女だったら化粧をして髪を整えて綺麗な格好をしているかもしれない。私はそういう女らしさもない堅苦しい奴なのだ。電話して話す友人って、一体誰。きっと私は新聞が友達なのだ。
「……もしかして、……傷付いた?」
成歩堂は私の顔を覗き込んで、まずいことをやってしまったのではという顔で訊いた。なんだ、なんなんだ傷付いた、って。
「……ばっかじゃないの。何であんたみたいなはったり男にそんなこと、」
「じゃあ何でそんな顔してるんだ」
そんな顔ってなに。
「泣きそうな顔」
「……出た、恐怖のはったり男。そんなことで泣くわけないでしょ」
「でも傷付いたって顔が物語ってるけど」
先程の興奮した色を払拭して落ち着いた様子を見せる成歩堂に、私は戸惑った。
きっと私は物凄く傷付いたのだろう。自分がどんな顔をしているかなんて解らないけれど、きっと私は傷付いた。お前なんか眼中にないと言われて、似合わないのにショックを受けていた。女らしさの欠片もない仕事人間、冷たい女。そんなのは知っている。だから彼に見てもらえないのも、解っている。
「今、傷付いた、んだろ」
「……五月蝿いな、何度も何度も。じゃあ傷付いたんじゃないの?あんたに冷酷で無慈悲で乱暴だって言われて悲しんでるんじゃないの?痛がってるんじゃないの?どうせ女らしくないって塞ぎこんでるんじゃないの?」
まるで他人事のように。マシンガンの弾切れと同時に、私は項垂れた。どうして、私はこんなに馬鹿なのだろう。
「……違う。は女らしいよ、ちゃんと」
「違うよね、そうじゃないよね、だってさっき言ったじゃない自分の言ったこと覚えてる?ねえ」
、」
「……ああ、良いよもう。くだらない、さっさと仕事しようよ」
「待って
一方的に捲くし立てて、もうこんな話はしたくなくて、打ち切ろうとした。が、成歩堂の強い言葉に私は留まる。
「……何」
「…………ごめん。悪かった、謝る」
「そう、解った。私も悪かった、じゃあこれでこの話はおしまい」
今度こそ打ち切る。私は矢継ぎ早に次の言葉を発して、無理矢理終わらせた。こんなことを引き摺ったまま、仕事をしてミスなんかしてしまったら最悪だ。馬鹿みたい、くだらない、恥ずかしくってやってられない。
私は残った紅茶を飲み干して、新聞を折りたたんで机の上に置いた。本当に、台無し。私の趣味まで最悪。
「……ごめん」
「もう終わりって言ったでしょ。仕事をなさい」
謝る成歩堂を相手にしない。終わりだもう、こんな話題をいつまでも持ち上げているなんてうんざりだ。私が馬鹿みたいで、いっそ可哀想なくらいだ。さっきまで可哀想だったのは、あいつだったのに。
パソコンの電源を入れて起動するまで書類を掻き集める。この内容を今日中にデータにする。明日には法廷が待っているのだから大至急完成させなければ。集められる情報は全て集めたのだから、あとはこれにかかっている。
成歩堂はまた活動を停止していた。私の机の前で突っ立っている。
「頼むから仕事をして。もう、良いから」
「……良く、ないよ。仕事は絶対終わらせるから、話をさせて」
成歩堂が深刻そうに言うので、私は渋々動きを止めた。こんな話、したくないけれど。
彼は手近な椅子を引っ張って座り、改めて私の方を見た。
「拗れたら嫌だから、言うけど」
真剣な顔で彼が言うので、何を、という言葉が出せなかった。私は相槌も打たずに、ただ話を聞くことにした。余計なことばかりを言いそうだったから、そうしないようにするためにも。
「彼女のこと、本当は好きでもなんでもなかった。適当に話を合わせていたら、付き合うことになった。チャンス、だと思った」
なんの。突然始まった独白に、心の中で問う。
「君の反応を見る、チャンスだと思った」
それは、つまりどういうこと。
「焼きもち焼いてくれたらな、って、思ってた」
ねえ、それって。
「好きなんだよ、のことが」
ねえ、ねえちょっと待って。
「反応を見れば、どうでも良さそうに良かったね、って言われて、ああ、なんだそうなのかって」
だって、そんなの。なんで付き合ったりしたの、なんて言えるわけが。
「それで今日ふられて、もう自棄、っていうのか。慰めてくれないかなと思ってたら、仕事しろ、なんて言われて」
だって、だってそれしか私には出来なかったんだ。
「それで君なんか願い下げだって、軽い気持ちで言った」
ほら、私馬鹿みたいじゃない。冗談に傷付いて、本当に馬鹿みたい。
「でも本当は、君に見て欲しいだけだったんだ」
なんで、なんでよ。
「……なんで、」
「…………?」
「なんで、最初から私自身に言わなかったの、何でそんな」
「自信がなかったから」
私はもう考えるという行動を起こすことが出来なかった。訊きたい、聞きたい。どうして、なんでって。質問攻めにされそうになった彼は笑った。
「いつもどうでも良さそうに僕の話を聞くから、眼中にないんじゃないかって、思ってた」
そんなの。そんなこと、私が思うだけで充分だ。どっちも自信がなくて踏み出せなくてくだらない喧嘩になって、そんなループ。そんなの沢山だ。
「そんなわけ、ないじゃない」
「え?」
どうでも良さそうに言うのは気持ちを隠すため。知られて気まずくなったらどうする、知られて遠ざけられたら、知られて、知られて。本当は彼の話が好きで好きで堪らなかった。でも返事は、そう、の一言にしなければならなかった。平穏のために。
「好きだって言ってるの!最っ低!」
私は椅子から立ち上がって邪魔な机を回り込んで彼の目の前へ行き、右手を振り被る。この男の腫れた左頬を引っ叩くために。成歩堂は驚いて目を見開いたあとすぐにぎゅっと目を閉じた。私は右手を振り下ろす。
ああ、お前はなんて。
「…………馬鹿」
なんて馬鹿なのだろう。
―――来るはずの乾いた音は、永遠に鳴らない。
私はこいつを殴ることも出来ない臆病者だった。今でも痛いはずなのに、もっとそれを与えるなんて考えるだけでも耐えられなかった。寸でのところで静止した平手を食らわすはずの手のひらで、彼の赤い左頬を撫でる。
「、、」
「最低だよ、本当に」
固く瞑った瞼を開いて、唖然とする彼の頬に左手も添える。目を閉じて、その額に自分の額をくっつけて、溜息をつく。ああ、本当に。
「馬鹿みたい」
結局私たちは、擦れ違っていただけ。本当は好きだった。でも自信がなくて直接なんていえなくて、回り道をした。たったそれだけ。くだらない。ああ、馬鹿みたい。
私はしょうもない茶番を笑った。くだらない、本当に。つられるように彼も笑う。
「ねえ、言ってよ。私自身に」
今度こそ、回り道なんかしないで。
「……愛してるよ」
君だけを。



続く螺旋に

どうか終止符を



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