すべてを知った上でなお彼を愛せる人間が果たして世界にどれほど存在するのか、考えたくもないが、多分、地球上の人間がすべて彼と出会ったとしたら、決して軽くない数字だろうと、想像するに易いね。
「随分汚いことをしますね、先生」
厭味っぽく言えば、彼はただ薄く笑うだけだった。
牙琉霧人という男は、私にとっての師であり愛すべき人であった。
それがどうしたものか人を殺すわ毒を盛るわそれを人に擦り付けるわ、散々なことを働いてきたと、成歩堂さんとの調べで明るみに出てしまった。というのが、今に至るまでの経緯である。
私はというとさほど驚かなかった。前々からこの人は危ないだとか、何かしそうだとか感じていたからで、起こってみれば、ああ、やっぱりやったんだ、というレベルであった。それはそれで如何なものかと思うが。
「貴方だって気付いていたでしょう?」
薄ら笑いのままソファに腰掛けて私を見る牙琉霧人は、それはもうそれだけで様になっていて、欠点がないと思わせるが、結局罪を暴かれてしまって、このあとごたごたしたらムショライフを送る予定だ。それはお気の毒に。
「以前からそういうことを感じていたはずです」
知っていたとばかりに牙琉は言う。それはそれはよく観察されていることで。この男のことだから、単なるカマかけかもしれないが。
「それでも、気付いていても、貴方は止めなかった」
止めなかった。
度々制止すべき点があったのに、私は何も言わなかった。言ってどうなることでもないと思っていたからである。この男が、そう易々と私の話を聞くわけもないと、ずっと前から諦念していた。やる前から諦めるような人間なのだ、私は。
牙琉は優雅に足を組んで、ただ私のほうを見ていた。あれはもう、一般人ではないのだ。犯罪者なのだ、殺人を、犯したのだ。
「止めて言うことを聞くほど先生は素直な人間ではないと思ってましたけど」
「ご明察です。貴方の言うことなら尚更」
私は眉間に皺を寄せる。何故私の言うことは聞けないのだ。やけに落ち着いた反抗期の子供をもったようだ。
牙琉がソファの傍らに立っていた私の腕を引っ張って一気に引き寄せる。バランスを崩した私は牙琉の上へ倒れかけ、それを受け止めた奴は、途轍もなく悲しげだった。
「私は」
乾いた唇が重なる。
「この関係が好きなんです」
牙琉が言う。この、殺伐としている、温かみなど欠片もない、触れ合うだけの行為が好きなのだと。それに及ぶまでの工程が足りていないのに、それを行うなんて、切ないだけなのに。
「法曹界で最もクールな弁護士が何言ってんです」
いとしい、触れたいと思うことは確かにあって、感情だけならきっと互いに足りているのだろう。ただ、伝えないから悲しいままなんだ、空しいままなんだ、解っているでしょう、先生。
「私たちに、交差点はないんです」
もう私は犯罪者ですから、と牙琉はにがく笑った。交わってはならないのだと、この男は解っているのだ。多分、これから言葉を交わすこともないのだろう。正義と悪は、本当は解りあえないはずなんだ。今交わした口付けは、あるはずないんだ。
「さよならですね」
私は絶対に貴方の方へ向かったりしないだろう。憎むべき貴方を、愛していたとしても、だ。
―――私はよく、この男を綺麗だと思った。そうじゃないと知った今でも、まだそう思っている。でも、貴方より、貴方が居るところより、ずっと正義は綺麗なはずだよ、先生。
「恨んでやりますよ、先生」
何も知らされないまま、成歩堂さんの仕事に関わらないまま、いつものように過ごしていたら、こんな別れはなかったのだろうか。何も知らず、居なくなったこの男にぼんやり疑問を感じながら生きていたのだろうか。
「先生、」
知らない方が良かったなんて、言わない。
交差点など
どこにもない
20071105( I knew your crime. )