誰にも気付かれず、自分だけが知っている、という事実は、実に愉快で喜ばしく、それだけで気分が高揚する。
 しかし何も自分だけ、という枠組みでなくとも、それは手に入れることが出来る。例えば、昼を誰にも見つからずに互いにそのままの姿で過ごしただとか、その後手を繋いで中庭を走りぬけただとか。―――つまり佐伯と私の話なのだが。

 「いらっしゃいませ。……おや、さんでしたか」

 優しい笑顔で珊瑚礁へ迎え入れたのは、佐伯の祖父だった。

 「こんにちは。今日もいつものお願いします」
 「畏まりました」

 丁寧に返答したマスターは、いつもの、つまり珊瑚礁ブレンドを淹れ始める。
 店内はコーヒーの良い香りが広がっていて、ケーキ食ったら美味いだろうなあとか、そんなことをつい思ってしまうが、うっかりそんなことをしては限りある財布の中身が消え失せてしまう。

 「何か良い事がありましたか?」

 カウンターについてコーヒーが入るのを待ちながらその作業を眺めていると、マスターが言った。眼鏡の奥の目がすっと細くなって笑う。

 「ええ、まあ。昨日、佐伯君と昼を一緒にしたんですけど、面白いですね、彼。引き出しが多い」
 「ははは、それは良かった。瑛にも息抜きが必要ですから、さんが居てくれると本当に助かります」
 「いえ、そんなことは。私が息抜きさせてもらってる方なんで」

 実際私も学校では澄ましているのだから佐伯と同じようなことをしている身で、やっぱりそれだけじゃ肩が凝る。自分に戻れる時間がほんの少しあって羽根を伸ばせれば、まだ余裕で笑顔を貼り付けられる。

 「……おい、何話してんだよ」

 背後にふっと気配が下り、声が降って来た。振り返ろうとした瞬間に、背後からチョップをかまされる。一応手加減はされていて痛くはなかったが、何故チョップされなければならないのだ。
 声とチョップで誰だが解った私は振り返るのをやめてカウンターに頬杖をつく。

 「じいちゃんも余計なこと言うな!」

 私の肩を引っ掴んでずい、とカウンターに乗り出したのは予想通り佐伯で、準備が終わって奥から出てきたところだったらしい。むっとした顔がその前髪を上げた風貌にミスマッチだった。

 「まあ落ち着きなさい、瑛。そうださん、今日はいつものじゃなくて、ブラジルブレンドにしてみませんか」
 「ブラジルブレンド?」

 なんだそれは。私がいかにもそういう顔をして問うたのが可笑しかったらしく、マスターは小さく笑って頷いた。いやそれにしても若い。佐伯が歳を取ったらこんな風になるのだろうか。

 「俺がブレンドしたんだ」

 客が私以外に誰も入っていないからか、暇を持て余した佐伯が横の席に座り、私同様頬杖をついて言った。たったこれだけの動作が様になりすぎて溜息をつきたくなった。羨ましい限りである。

 「へえ……じゃあそれで。さぞかし美味いんだろうなあ?」
 「何だその言葉遣いは。オヤジか。お父さんは許しません。大体不味かったら店に出せないだろ」

 私がじと目で佐伯を見遣ると、突っ込みは欠かさずいとも簡単にかわして当たり前の事実を述べた。ここでふざけて乗ったりうろたえたりしないところが佐伯らしい。コーヒーに関しては真面目で、真っ直ぐだ。
 いつもはひねくれているくせに、だなんてことを、口に出したりするのを私はしない。やっぱり私はこういう真摯な目が好きだ。成功したら良いなと、思ってしまったりする。

 「お客さんも他に居ないし、瑛、さんに淹れてやりなさい。あ、僕は腰が痛いので失礼します」
 「大丈夫ですか、……って別に痛くなさそうですね。思いっきり背筋伸びてますけど」
 「ははは、まあ、あとは若いお二人で、ということです」

 マスターはにこやかにそう言って、年寄りは退散しますとカウンターを離れた。若い二人にとはどういうことだ。私たちはそんな風に見えるのだろうか。ならばいっそプラスに考えて、夢のプリンスとのゴールインはクラスメイトより近いと思っておこう。料理上手は私が頂く。とかなんとか考えながら店の奥へと消えていったその背中をぽかんと見つめるのは私だけではなかった。

 「はあ?意味わかんね。……まあいいや。飲むんだろ?」
 「うん」

 何でもない風に言っている割に顔を薄く朱に染めた佐伯が席を立ってカウンターの内側へ回り、コーヒーを淹れる準備を始める。流石手際のよい佐伯は、流れるように作業をこなしていく。
 良いな、と素直に思う。
 簡単にやってみせるけれど実は影で努力を怠らないで頑張っていて、捻くれているけれど好きなことには真っ直ぐで、凄く格好良いと思うのだ、そういうのは。
 佐伯の姿を眺めながら、自然と緩む頬を止めるのも忘れるくらい、微笑ましいと感じてしまった私は、やっぱり彼になんだよ、と突っ込まれたので、別に、と言葉を濁した。

 「こういうのってさ」
 「何だよ」
 「こういうのって、見てるだけで幸せ、っていうのか、何ていうのか」
 「こういうのって何だよ」
 「こう、佐伯君がコーヒー淹れてるの。飲めなくても見てるだけでにやつくよなって話」
 「にやつくのかよ。顔が良いのは認める。……だけどあんま見んな」

 にやつくという表現に走ったのはどうにも正面きって素直に言えないからだ。どうしても軽々しく言葉を飛ばさないとならない。少しでも重くなれば、駄目になってしまう気がするから。軽口叩き合ってるのが、彼は好きなのかもしれないから。
 見られていることが恥ずかしいらしい佐伯は、ふいっと私から視線を逸らしてコーヒーに集中しようとしているらしかった。顔が赤い。

 「クラスの皆にも見せてやりたいね、はね学プリンスのバリスタ振りを」

 物凄く自慢したい、と呟くと、佐伯はやめろと眉間に皺を寄せた。そりゃそうだ。それにしても眉間の皺が深い。何かやってしまったか私は。思い当たるのは、恐らくプリンス辺り、くらいしかない。この前プリンスプリンス言うなと叱られた。
 ―――そういえば口に出しておきながら忘れていた。彼が王子だということに。学校中のアイドルだということに。

 「プリンス、……プリンスじゃないよなあ、いやでもプリンス、いや違う気が……」
 「何一人で百面相してんだ」

 佐伯瑛は果たしてプリンスと言うに値する人物なのだろうか。その疑問に悩む私を見て佐伯が呆れ口調に笑う。
 佐伯は学校で良い顔をしている時は、まさに王子としか言いようが無い完璧な様子だ。女子が騒いでも何の異議もない。ないけれど、つまらないんじゃないかとは思ってしまう。本当は、こんな人間なのに。本当は、あんな仮面よりずっと面白くて格好良いのに。

 「プリンス……いややっぱこっちが良いね」
 「だからさっきから何なんだお前。こっちって何だ」
 「つくらない佐伯瑛」
 「……っていうのは学校とバイト以外の俺、ってことか」
 「そう」
 「何でだよ。あんな爽やかな笑顔他にないだろ」
 「ないね。確かにない。あれはあれで良い。見てる分には。でもさ」
 「でも、何だよ」

 ほら入ったぞ、と私に声をかけた佐伯がカップを置いた。なんとまあぞんざいなことか、ソーサーもなしに、おまけに音まで立てて出しやがった。それでもコーヒーは良い仕事をしていて、ちぐはぐだった。

 「やっぱり、こっちが人間くさくて良い」

 出されたコーヒーを啜る。
 少々乱暴で偉そうでおかしくて優しい捻くれ者の方が、嘘で塗り固められた笑顔がどんなに爽やかでもずっと良い。誤魔化さないで居たら良いのに。自分を出したって、きっと大丈夫だから。嫌われたりしないし、友達だって沢山出来るから。そんなことが出来るはずないなんてことは、知っているけれど。

 「……良いのか?こんなんで。楽だけど、でも」
 「でも?」
 「……お前だけだ、そんなこと言うのは」

 だから私というのは、とんでもなく貴重な存在なのだということを、彼の目が訴えていた。
 そうは言っても、他の人にも素を出してみないと解らないじゃないか、と思う。過去の経験からしてそうなのだったら、人を選び間違えている。というか、相手が悪い。私はまったく嫌だと思わないのだから。私がおかしい、ということもありえなくはないが。
 私は何かしら彼の力になれているのだろうか。私は彼の力を抜いてやることが出来ているのだろうか。手を差し伸べたとしても、どうせ自分だけで思いつめてしまうのだろう、私はきっとそこに居るだけだ。

 「もう今更仮面が良いだなんて言えないって。多分、今真面目にあんな笑顔で接してこられたら、傷付く」

 それが嘘だと知ってしまっているから。一度佐伯瑛を知ってしまった私は、そうされたらもう二度と彼自身を見ることは出来ないのだろう。完全なる拒絶、閉ざされた進入経路。お前なんか嫌いだという意思表示。その他大勢と、一緒。

 「……馬鹿、そんなことするわけないだろ」

 私の言ったことが少なからず意外だったようで、少し間が空いたが佐伯がそう言った。そうだといい、と私は思う。余所余所しくされたときは恐らく嫌われてしまったときで、そしてコーヒーを飲めなくなるとき。
 珊瑚礁の味を知って、今更化学準備室でビーカーのコーヒーを飲むのは気が引ける。絶対に比べてしまうだろう。ビーカーも不思議な感覚で私は嫌いじゃないが。

 「じゃあ悪くはならないってことか。だったらいっそもっと良くなってくれるとおじさん嬉しいんだけど。私の家事の無い未来のために」
 「バーカ、料理は引き受けてやっても洗濯とかはお前だからな!」
 「そんな先の話はともかく、結婚を前提としたお付き合いはどうですか」
 「は?……ああ、うん、えっと、あー……なんで言っちゃうんだお前は。俺が近いうちに言うつもりだったのに」
 「え、まじすか」
 「大マジ」

 いつもの適当なノリでちょっと重くなってきた空気をがらりと変えてみたら、思いがけず真面目な答えが返ってきた。近いうちに言うつもり、だったらしい。そんな馬鹿な。あの佐伯瑛に告白なんかされてみろ、想像するだけで興奮するというものだ。乙女らしからぬ言い方だが。
 佐伯は自分の分もコーヒーを淹れると、カウンターに寄り掛かって一口飲んだ。様になり過ぎている。ちょっとくらい見惚れても良いだろうと眺めていると、佐伯は何だよと一言私に投げた。駄目なのか。

 「そういやお前、今日塾は?」
 「え、ああ、あるけど。……もしかして、」
 「ああそのもしかして。時間、やばいんじゃないか?」
 「…………」

 思考が停止しかける。
 始まるのは8時から。現在7時25分。果たしてこれは間に合うのだろうか。今からダッシュで行けば多分、間に合わないことはない。それにしても汗だくで受講しろと。
 私は兎に角急ぐので、カップの中のコーヒーを一気に飲み干し、カウンターに勢いよく置いて鞄を引っつかみ、そういえば支払いがあったと鞄をあけて財布はどこだと間誤付いていると、佐伯が言う。

 「良いから急げ!お代は次で良いから!」

 なんて良い奴。

 「あっあざーす!じゃあまた明日!」

 鞄を閉める時間も惜しいと、挨拶を終えた瞬間に店の外へと走り出す。なんという失態。たった数分かと思いきや、意外にも大分時間を潰していたようだ。走って間もないが焦って汗が噴出す。
 兎に角バス停までは全力疾走しよう。あと5分でバスが着くはずだ。それまでに停留所まで辿り着かなければならない。塾まで走り続けたくなければ。
 息を切らして走って、余裕がなくて、さすがに漣の音も聞こえなかった。だから気付くわけがなかったんだ。

 生徒手帳と、その中の宝物を落としていただなんて。



――― 青い静寂は何も言わない




20070922 ( What do you think? )