「あれ、あんたそんなのいつ覚えたんだ?」
毎週末、大さん橋の辺りまで2人で行って、ヴァイオリンの練習をするのが、桐也とのここ最近の日課であった。
練習が終わったので、心地よい海風を受けながら、ベンチに腰を下ろしていると、がふと鼻歌を歌った。いつか桐也が一度だけに弾いてやった曲であった。
「前に桐也の演奏を聴いて気に入ったから、プレーヤーに入れてるの」
はくすぐったそうに言う。言われた桐也のほうが倍はくすぐったいのであるが。
「なるほどね。良いよなそれ」
「うん。でもそれならなんであれから弾かないの?」
「それは……」
それは。桐也は言いかけて、言わないことに決めた。そんなこと言えるものか。―――『愛の挨拶』を、あれから弾かない理由なんて。
「それは?」
が言いよどんだ桐也の顔を覗き込むが、桐也はだんまりを決め込んだ。の眉間に皺が寄る。面白い顔だなんてことは、言わないでおく。せめてもの配慮だ。
『愛の挨拶』は、中学を卒業したときに、一度だけに聴かせたことがある。香穂子のためだけに。まさしく、愛を込めて。当然、そんなくさいことは誰にも言わなかった。無論、にも。音楽を征服していた自分との決別と、に対する気持ちの整理のためという理由もあった。
すなわち桐也にとって『愛の挨拶』は、甘酸っぱい思い出であり、ちょっと思い出したくない青春であり、まあ、そんな複雑な気持ちを帯びた1曲なのであって、もう相当なことがないと、人前でなんて弾くつもりがない曲なのであった。
もしも次に弾くときが来たのなら、それは。
「弾いてよ」
がむっとした顔で言う。桐也が我慢ならず噴出す。可愛いのか可愛くないのかわかりかねる顔であったが、それでも結局桐也はを可愛いと思ってしまうのである。贔屓目であろうか。対して面白がられたは、大抵むきになる。それは今回も例外ではなく、
「弾いてったら!」
は顔を赤くして、命令しているのかお願いしているのかよく解らないような言い方をする。桐也はこれが好きだ。年上のくせに、どうしても上手に出られないの性格が。
「あんた、これどんな曲か知ってんの?調べてからそういうこと言えよ」
なんとかして弾かせようとするの頭をぐしゃぐしゃにかき回して、桐也は幸せを噛み締めた。多分これが幸せだ。この、暖かい気持ちが。乱された髪形をどうにかして直そうとするを見て、愛しく思うこの気持ちが。
「えっ、じゃあ今日帰ったら調べるから。そしたら弾いてね」
「あのな。やっぱ調べなくていい。そのほうがあんたのためだ」
今度はかき回したりせず、ぽんぽんと頭に手のひらを乗せる。はこれが好きだ。いや、だからといって、桐也はこれで場を流そうとしたわけでは、断じてない。桐也もまた、に触れる時間を楽しんでいただけである。
「ねえ」
「何」
軽く頭を撫でたら急に大人しくなったが言う。次女であるより、第一子である姉のほうが両親に猫可愛がりされていたものだから、写真だって姉よりずっと少ないし、などということを、はしばしばなんでもないように言うが、実はちょっと気にしているのかもしれない。実はちょっと、愛に飢えているのかもしれない。与えられた愛を拒めないし、縋りたいのかもしれない。そうであるならば、桐也はもう少しだけ撫でてやる以外、するはずがなかった。
「手、見せて」
「手?」
のお願いとやらは、たいしたことではなかった。が右隣に座っていて、右手で髪を撫でていたから、桐也はおとなしく左手を差し出す。の自分よりも細い指が、その手に触れる。桐也は手のつくりがまったく違うことに今更ながら感心して、自分が男であることを改めて自覚しながら、の隣に居られることに安堵した。
今までずっとヴァイオリンを弾いてきた手は、の手とはまるで違う。初心者の、皮の薄い指先が、まだただ綺麗なだけである手が触れてくる感覚は、何か不思議だ。
はまじまじと桐也の手を眺めた後、なにやら「私も頑張らないと」と呟き、それからするりと手を繋いだ。手を繋ぎたかっただけっていうわけじゃないところが、の大きな成長を垣間見せたような気が、桐也にはした。そして、それで良いんだと思う。そうしていつか、愛の挨拶の意味にだって、気づいてしまうのだろう。
「」
君が好きだ。自信だけは、確信だけは間違いない。アリスを教えるエルガーよりも、アリスを愛したエルガーよりも。
2009-6-14~8-5 脱稿
一部設定を『追憶のソルフェージュ』より参考。香穂子の姉の設定はアニメより。