私は古泉一樹という男が嫌いであった。 「じゃあそういうことで、お願いします」 「解った」 彼の男が爽やかに、あの胡散臭い以外の何物でもない微笑をその美しい容顔に浮かべ言ったのを、私は至って普通に受け答える。はっきり言って一発ぶん殴って奴がもんどりうつところを見てみたいところだが、しがない一女子高生の私は、そうそう問題を起こすわけにはいかないのである。 古泉という名の頭脳明晰で運動神経マルで容姿端麗というまるで漫画の中の王子様、もとい私のクラスメイトは、用件を私に伝えると自分の席へ戻った。そうだそうだ、さっさと帰れ。私は読んでいた文庫本に目を戻す。溜息ひとつ。 それにしても、なんということだ。厄介なことになった。 ―――というのは、たった今古泉から聞いた話のことなのだが。 「っ!古泉くん、なんて?」 ばたばたばた、がたっ。なんという騒々しさ。これがどこか向こうで起こっていることならばどんなに良かったか。目を瞑りたくなる光景は、私の方へと確実に向かってきていた。私の席より遥か前方に位置する女子生徒が、古泉と私の会話が終わるや否や、私の方へと勢いよくやってきたかと思えば、ばん、と私の机を両手で叩いて顔を近付け言ったのだった。やめろ気持ち悪い。 「顔近い。……そんなに面白くない話だっつーの」 残り数センチで鼻が触れ合うんじゃないかというところまで詰め寄ってきた友人A―――稲木知美は、むっと顔を顰めて顔を離した。 「なーによ、教えてくれたって良いじゃない。2人だけの秘密にでもしときたいわけ?そういうことなの?もしかして、古泉くんに惚れちゃった?」 まさか。 そう返してやるほど私は心が広く気が長い人間ではなかったので、ぎろりと睨み返してやったね。内心の鬼の形相が伝われば良い。頭の中ではイラッという文字が漫画よろしく過ぎったし、何せこの女、確実に相手を苛立たせるプロフェッショナルだ。単なるからかいは、冗談の通じない人間には紛うことなき嫌がらせでしかない。悪い冗談だ、本当に。日頃嫌いだと言い募っているというのに、余計なことを言ってくれる。 むかつきを押し込めてちらりと視線を動かせば、向こうに古泉の座っている背中が見える。畜生、背中まで格好つけやがって。舌打ちしたくても出来ないほど私の目には整って見えるね、まったく腹立たしいことに。 目の前でぶーたれている彼女を相手にしているのも腹立たしく面倒くさいし、古泉の背中を見つめているのも気持ちが悪い。行き場がなくなった視線を文庫本に戻す。こんなことをしていて、まだ半分も読めていないのだった。溜息ひとつ、聴覚をシャットダウン。 聞きたくないことはこうするに限るよ、まったく。 放課後、私は部室棟の文芸部室まで足を運んだ。その目的は午前中の会話にあるのだった。 『今日の放課後、文芸部室まで来ていただけませんか?我が同好会の長が是非にと』 非常に迷惑な話である。これはもちろんクラスメイトのむかつく古泉という男からのお言葉だ。思い出したくもない。やたらときれいな声で喋るものだから、本当にもう、あれが古泉の声でなければ良かったのに、と仕方のないことまで思ってしまったよ、残念なことに。 部室の前まで来ると、今日一日で何度ついたことか知れない溜息をさらに漏らし、ドアをノックする。なんて億劫で憂鬱なんだろう。 「はーいどうぞー」 微妙に投げやりな語調である。ドアの向こうから聞こえてきた声は女声であった。もちろん聞き覚えがある。涼宮ハルヒのものだ。面識はない。 ところで私は残念ながら、来てくださいと言われたからとすぐ足を向けるような心優しい人間ではない。ならば何故今此処に来ているかって?それは言うまでもなく恐怖の変人涼宮ハルヒが私を呼んでいるからだ、畜生。情報に疎い私でも我侭っぷりは耳にしている。問題なく高校生活を終わらせたい優等生の私は、ここで変人に逆らって痛い目に遭いたくない。 「失礼します」 ドアノブに手をかけて、深呼吸し、ドアを開ける。聞き苦しい金具の悲鳴が聞こえた。油を点すかしておけ。顔を顰めたいのを我慢し、いざ行かん、と室内に侵入する。 「…………」 文芸部室に踏み込んだ私の目にまず飛び込んできたのは、あまりに非日常的なメイド服姿の美少女がお茶を運ぶ風景であった。もちろん言葉を失うのみである。他に視線をめぐらせてみると、一番むこうに私をお呼びの涼宮ハルヒがパソコンと睨めっこしているのが見え、その手前でむかつく古泉と知らない男子生徒がオセロをしているのが見え、窓際で本を読んでいるこちらも知らない女子生徒が見え、お世辞にも統一感があるとはいえない光景だったし、活動内容が不明である。 口から何も言葉が出せず、どうすべきなのか逡巡しながら再度室内を見回すと、ばっちり古泉と目が合う。奴はにこにこと笑っている。憎い。いきなりヒットポイントを削がれた気分である。 さっさと事を済ませたい私は、腹の立つ古泉からさっさと目を逸らして、この謎の同好会の長を見遣る。その涼宮ハルヒはというと、自分が呼び寄せた客が入ってきたというのにパソコンから目を上げてはくれなかった。なにやら今全神経を作業に注ぎ込んでいるらしい。いやに真剣な面持ちである。いいからさっさと終わらせてくれよ。 「とりあえず座ってはどうですか?」 古泉が自らの隣の椅子をひく。そこに座れと言うのか、そこに。まったく嫌な奴である。本人には古泉嫌いオーラを悟られないために、適当に繕っているので、私が嫌がることを意図してやったとは思えないが、どちらにせよ私にとっては気落ちする内容に変わりない。 「じゃあ、失礼します」 なんにせよ、立ちっぱなしは避けたいので、座る。古泉の隣に。 「ええ、どうぞ」 短い会話が成立したが、そこに私は何の意味も見出せなかったし、ちょっとしたクラスメイトであるというだけでちょっとばかり紳士に振舞ってくる古泉の心境も理解できなかったね。 そういえば思い返してみると、このように椅子をひいてやる気遣いのごとく、古泉という男は、私に対していやに親切であった。誰にでも同じ顔をしているのは言うまでもないが、誰に話しかけるわけでない古泉が、私の困り用には度々やってくるという奇妙なフローチャートがいつのまにか出来上がっていた。考える必要性を感じたことが今まで一度もなかったがために私自身知りもしなかったが、古泉とかいうにこにこ顔は、ちょっとばかり紳士、どころか、きちんと紳士なのである。 それが私の苛々を増長させる要因でもあったが(馬鹿にされているような気分がする)、老人のような心持で過去を振り返ってみると、客観的に、古泉は単なる良い奴でしかなかった。だがそれは何だか許せない。 「朝比奈さん、彼女にお茶を頂けますか」 しかしながらその男は、親切心の塊だった。 「あ、そうですね、ごめんなさい。今淹れますから」 「あ、いや、お気遣いなく」 メイド服の美少女は笑顔と共に湯飲みやら急須やらを取りに行く。なんとなく見守っていると、古泉がこちらを見ていた。もしこれが親切心の塊なんかじゃなく、もっと計算し尽くされた色々複雑なものだったら、なんてことを思う。というより、そっちの方がつくづく自然である。本当に本気で親切なのだったら、そりゃ今時珍しい重宝すべき人材だろうよ。私はもちろん、古泉がこちらを見ていることなんて、無視した。 「出来たわっ!」 不意に、それまで沈黙を守っていた涼宮ハルヒが、驚いて猫も逃げ出すようなでかい声を上げた。猫ではなくとも思わず私も肩を揺らした。しかもそれは静寂を騒音が突き破るようなもので、揺れた肩は大袈裟ともとれるものだったが、古泉は気付いているのかいないのか、オセロの石を盤に置いていた。それが知っているのに内心で笑いつつ知らぬ振りをしているように感ぜられて、妙に腹立たしいのは、私がとことん古泉を敵視しているからであろう。 団長の用事は一段落ついたようだが、ところで、そもそも私は何故此処に居るのだろう。 「さーて、漸く本題に入れるわ。あなた、ちゃんね?って聞かなくても解ってるけど」 涼宮ハルヒは私に問うているのかいないのかよく解らない言葉運びでもって、そのでかい声でもって、同好会メンバーの注目を集めた。……はずだったが、若干1名が今更、ちら、とこちらに視線を寄越したのは気のせいということにしておく。誰だかなんていうまでもない。 「みんな、この子はちゃん。あんたたちも我がSOS団の新たな要員として迎えるに相応しいと思うでしょ?」 「…………」 言わずもがな、この沈黙は、全員分のものである。もちろん涼宮ハルヒは誰かの意見なんて必要としていないわけで、疑問符をつけこそすれ、イエスかノーか、聞き入れるつもりなどないのであった。 溜息をつくなら今しかない。 「というわけで、歓迎するわ、!ようこそ我がSOS団へ!」 いやいや、まさか。何を言っているんだ? 涼宮ハルヒは声高らかに何事かを口走った。団員のイエス・ノーどころか、私のそれすら聞く気はないらしく、ものの数秒でそれは決定事項となった。絶句する。そんな私をにこにこと歓迎ムードで見ている古泉は世界がひっくり返ったとしてもむかつく。いつのまにか涼宮ハルヒからの呼び名が呼び捨てになっていることなんか、気にしている場合ではなかった。 「ってことで、メンバーを紹介するわ。私が団長で涼宮ハルヒ。そっちの可愛いのが朝比奈みくるちゃん、本読んでるのが長門有希、そこのがキョン。古泉君は……知ってるわよね」 ハルヒは自分の中だけの当たり前で、急流のごとく話を進めていく。ハルヒの紹介から省かれた古泉は、にこにこしていた。無視した。流れについていけていない私を気遣うような目で見ている思考自体はそれなりにまともそうな2名に親近感を覚える。メイド服の女子生徒と古泉でない男子生徒だ。きっと女子生徒のメイド服は無理矢理着せられていて、男子生徒も無理矢理参加させられているのだろう。どことなく諦念が漂っている。 さて、今私が何をすべきかというと、多分、反駁すればいいのだと思う。何が何でも入らないと言えば、無理に入れることは不可能だろう。それなのに私の口は接着剤でくっつけられたかのように動かず、何の言葉も発せないでいるわけで、いつのまにか全てどうでもいいような気さえしている。勝手にしてくれ。あれほど問題は起こしたくないと言っていたが、それすら超越するほどの、真性の面倒くさがり屋である。 「よろしくお願いします」 朝比奈みくる、キョン、長門が、それぞれ頭を下げたりよろしくと言ったりして、一通りの挨拶を終えると、最後には当然奴が回ってくるわけで、そいつは相変わらずの笑みで私にそう言って、それから手を差し出した。断るわけにもいかないし、先ほどから何だかどうでもいいような気分なので、その手を「よろしく」の一言とともに握った。その手は冷たかった。この状況を鼻で笑いそうになった。 「貴方と一緒に活動出来て、嬉しいです」 私は全然嬉しくなんかないよ。 「そりゃどうも」 もはや全部が全部どうでもよかった。よかったので、思わず溜息とともに、どうでも良さそうにそう言ってしまった。間違えた。隠してきたのに。血の気が引いて、ひゅっと息を呑む。古泉が口を開く。 「本当に、良かった」 古泉を見た。古泉は、まるで告白をOKされたような、心底嬉しそうな顔をしていた。キョンがぎょっとした。古泉が、皮肉全開の言葉のあとに、幸せそうな顔をしたからである。実際私も一瞬耳と目を疑った。 そうしてやっと、私は古泉が考えていることを知った。 「そう」 唖然とした色の声で、ぽつりと返した。私は後悔していた。古泉は知っていたのだ。私がずっと作り笑いをしていたことを。だから本音が零れたのを、あれだけ喜んだのだ。どうやら本当に親切の塊だったらしい。私はいつも、古泉に手を貸される度、紳士ぶって見下されているような気がしていた。それが途轍もない勘違いであって、私の捻くれた証拠であって、古泉が本当に私のためにしてくれていることであったわけで。 「ごめん」 気付いた時には謝罪が口を突いて出ていた。心底、後悔していた。私は俯いていたが、キョンが訝っているのが解る。誤解して、親切を受け取りながらも、内心では毒づいていた自分を思い出した。知らないうちに握り締めていたスカートは皺になっていた。 「いえ」 その2文字の柔らかな響きが、なんだか私をどうしようもなくさせた。冗談じゃなかった。笑うな、と思った。睨まれこそすれ、そんな風に笑ってもらうのは絶対に間違っている。 「…………なんで」 小さすぎるその問いに、答えを与える者は誰も居なかった。私は心の中で泣いた。 ―――You can laugh at me,I don't care. 前の話 - 戻る - 次の話 |