何の障害もなく物事を乗り越えるなんてことは世の中にあるもんじゃない。 「手を、繋ぎませんか」 だから、今回のことも例外ではなくて、自分の気持ちや覚悟が揃っていても、彼女が頷かなければ何にもならないわけで、それなのに自分は今、彼女に向けて突拍子もないことを言った。 「繋ぎませんか」 1度目の時にぴくりと反応した彼女は、2度目には緩慢な動作でこちらを見上げてきた。たった今、やけに彼女を気に掛けていた男と別れて、漸く2人で歩き始めたのだが、相変わらず彼女は絶望的な顔をしていた。病的に青ざめたその頬に触れたら、きっと気候に似合わず冷たいのだろうと思った。 彼女は何も言い出さない。返事をしないまま、ただこちらをじっと見ていた。彼女は表情もそのままだったが、困ったような顔をしている気がした。断りたくても断れない、とか、そんなような感じだった。だから、我侭を聞いてもらうことにした。何も言わず、僕が勝手に彼女の手を取ると、 「……駄目だよ」 彼女は初めて喋った。冷たそうな頬をしているのに、手のひらは燃えるように熱かった。驚いたけれど幸福と熱を逃がすまい、とぎゅっとその手を握った。その温度は、彼女が生きている証だと思った。 彼女はどうしたら良いのか解らないといった顔で、数秒間黙ったが、もう一度、「駄目だよ」と言った。僕は聞いていて聞こえない振りをした。拒まない方が悪い。口で否定しながら、振り解かない方が悪い。駄目だと言うのならそうすればいい。しないのだったら解いてなんかやらない。僕は今、少しだけ悪い奴になる。 「○さん、僕は、」 不思議探索をしていた時、彼女が突然泣き出したのがどうしてなのか、僕は知らない。知らないし、聞かない。どうでも良いわけではないし、寧ろ問い詰めたい気持ちが膨れ上がっているが、聞いたら彼女は手を繋いで帰ってなどくれないような気がした。というよりも、帰れる状況でなくなってしまうと言った方が正しいか。また泣いてしまう気がするのだ。まあ、そんなのはただの直感でしかなかったけれど。自分は彼女が普段どれほど涙を流しているかなど知らないし、聞けるわけもないからである。 彼女は隣でとぼとぼ歩きながら、どんどん表情を曇らせていった。どうしたものかなあと思う。自分は例の件について、問い詰めてなどいなかった。いなかったのだが、彼女が今に至っては泣き出しそうな顔をしているのだから困ったものだ。それを嫌だと感じる僕ではなかったから、もっと困りものだ。彼女が何をしていても、すべてが許容範囲で、どころか好ましく思えるのだ。今だって実のところ抱き締めたいと思ったりしている。不謹慎かもしれないが、愛しいと思った。繋がっている手は熱い。それなのに、とても優しい。 「好きです」 それを言うのに何の躊躇いもなかった。穏やかな気持ちだった。彼女が愛おしかった。繋いだ手が、嬉しかった。だから、別に構わないと思った。涼宮さんの許しも、機関の命令もなしに、柄にもなく自分本位で動いてしまったとしても、平気だと思った。別に、決まりを破っても良いと思ったし、口に出さずに居られなかった。人間の欲というのは留まるところを知らないと、それは周知されているが、無論自分もそれに漏れることがないのである。必要だと思った。彼女が、心底必要だと思った。 さて、言われた彼女はというと、石化するかのごとく固まったのだが、 「好きです、○さん」 ぴたりと足を止めた彼女に向き合って、もう1度言った。不安定な目がこちらを見上げている。彼女はあからさまに動揺していた。彼女がいつも何食わぬ顔でろくに心を動かしたふうに見えないから、それが少し嬉しいなどと感じるのは、それこそ不謹慎だし、いよいよもって自分があらぬ方向へ向かっていることを知らされた。幸せなんだと思う。もちろん、それが自分だけであることは重々承知している。 抱き締めたい衝動に駆られながらも、そうしたら怒るかもしれないので耐えていたが、彼女が泣き出しそうの一線を越えて、涙を零したので、結局僕は繋いでいた手を解いて腕を伸ばしてしまったけれど、それは仕方のないことだと思ってもらいたい。 「嘘だ」 彼女は嗚咽交じりにその3文字を割とはっきり言った。僕は苦笑した。彼女はまるで自分に言い聞かせるように言うのだ。だから僕は、「嘘じゃないです」と言った。彼女はかぶりを振る。僕は抱き締める腕に力を込める。彼女は泣き続ける。どうしたものかな、と思う。今日は彼女を泣かせてばかりだ。 そうしてどれくらい経ったかなんて、数えてもいないから知らないけれど、一頻り泣いて落ち着いた彼女は、僕の胸を押し返してこちらを見上げた。それから、何と言ったかというと、 「私は古泉を好きになるわけにはいかないから」 という、衝撃的な内容であった。思わず数回瞬きを繰り返してしまった。彼女の決意の篭ったような声音は一体何なのだろうか?これは振られたととっても良いのだろうか?寧ろ意地になって言っているようにも聞こえるので、期待できないこともないけれど、一体これをどう判断すれば良いのだろうか? ―――というのは、全てさっきまでの回想である。 そして今、自分はどこで何をしているかというと、自宅で、呆然と座っているのだが。 「馬鹿だな」 苦笑するしかなかった。思わず呟くのは、無論今まで決められたふうに動いてきたはずなのに突然車両を脱線させた自分に対してだが、衝撃的事実を告げた彼女に対してでもあった。 あの一言のあと、呆気に取られたりして、一体全体自分は何を言ったものかと思っていると、結局その話題について何も言うことができず、言及することができず、ついに口に出来たのは「送っていきます」だった。言ったとおり、彼女を家まで無事に送り届けた。手を離すタイミングが掴めなかったがために、仲良く手を繋いだままという、嬉しいのに罰ゲーム的何かに感じられる彼女の家への帰路は、途轍もなく長かった。 明日はまだ1日分の猶予がある。猶予があるが、他クラスの団員と違って、明後日には文芸部室でと言わず教室で顔を合わせることになるわけで、つまるところ気まずい雰囲気が流れるだろうわけである。自分はどうしたら良いのか? 情けないことに、僕はそれから彼女にメールを送信した。「僕は振られたんでしょうか?」。情けなさ過ぎて笑いさえ込み上げてくるものだが、結局その可笑しさも溜息に沈むのだった。どうしたらいいというのか?せめて楽しく笑えたら良かったのに。 十数秒返信を待っていると、開きっぱなしの携帯電話の液晶が光った。これまた情けないことに、メール受信画面を見ると緊張が走ったのだが、一度深呼吸をしてメールを開くと、液晶は「違う」の2文字を言い放った。じゃあ付き合ってくれるのか?という疑問を一瞬浮かべたが、「好きになるわけにはいかないから」に打ち砕かれる。どっちなんだ。 まあ、どっちにしろ振られてはいないらしい、ということだけが結論である。 溜息をついて、良かった、と思いつつ、だったら月曜日からどう接していけばいいのかという難題が待ち受けていることに気付いた。眉間に皺が寄る。いっそ振ってくれたらその方が良かったんじゃないか?そんなことはあるはずがないけれど。そうこう考えていると、 「あ」 僕は携帯のディスプレイを見ていて、あることに気付いた。 ―――メールで聞けばいいじゃないか。 どうして今まで気が付かなかったのかと感嘆しながら、大層男らしくないその閃きを、僕は名案だと思ってしまったので、溜息をつきつつ、実際にメールで聞くのも駄目さ加減が半端でないので、 「月曜日、答えをください」 という、気の短いことを返信した。 これも結局のところ駄目さ加減など知れたことなので、自嘲しながら「振られれば良いのに」と振られるのを恐れる自分を殺した。 あの世話好きな男にも言われたが、つくづく、自分は駄目なやつだ。 月曜日に、彼女は笑っているだろうか。 ―――Please give me the answer on next Monday. 前の話 - 戻る - 次の話 |