死 を 告 げ る





暗い、路地裏。真っ赤だったものはどす黒い茶色になって、洋服を汚していた。昼間は明るい街中も、すっかり明かりを落として静まり返っている。恐ろしいほどの静寂に包まれたそこに、女がひとり。世間が危ないだろうということよりも、その形相はもっと危ない目にあったことを物語っていた。血塗れの、白いワンピース。切り傷、刺し傷、乱れた髪、青ざめた顔。

易々と外に出たのが終わりの始まりだった。ピオニー九世陛下のブウサギが一匹、グランコクマから逃げ出した。宮殿内に散らばることはよくあるが、街から出るということは今まで無かった。逃走したのが運悪くピオニーが溺愛している、ネフリー。私は探すしかなかった。ブウサギの世話係を任されていた私は、それが不満だった。本当は就職の際、軍に志願したのに、私は何故だかピオニーに気に入られ、ブウサギ係に任命されてしまった。理由は、『お前の目はとても真っ直ぐだ、きっとブウサギもお前なら喜んで懐く!』。最悪だった。頭はずば抜けて良いうえ仕事はきっちりこなす私が、どうしてブウサギの面倒などみなくてはならないのかと。私は、軍人になりたかった。家族を、沢山の人を守りたかった。体を動かすような仕事は出来なくても、作戦参謀とか、軍のブレインにはなれると思った。それなのに、ブウサギ当番である。そして私はきっともうすぐ死ぬだろう。

「…………」

お父さん、ごめんなさい。本の虫になったりして勉強を頑張ったけれど、もうそろそろ死ぬ。お母さん、夕食を食べてあげられなくてごめんなさい。兄さん、軍人になれなくてごめん。馬鹿馬鹿しかった。死に際には走馬灯のように色々と見えるというが、私には暗い町並みと掌にこびりついた赤黒い血しか見えなかった。どうせなら、幸せな夢が良かった。


「何をしているんです」


頭上で何かがきらりと光った。足元へと目を落としていて地面ばかりだった視界に、新しく靴が入ってくる。軍の、靴だ。ふと視線を上げると、軍人―――紛れもなくジェイド・カーティスが立っていた。先程光ったのは直した眼鏡だと解った。

私はジェイドが大嫌いだった。頭が良くて戦えて、譜術の腕も確かで、要らないけれど嫌味を言う口も達者で。私は自分がジェイドに劣っているとは思わなかった。百歩譲って対等だと思っていた。思って、いたのに。ある日力の差を見せ付けられて、愕然とした。私は頭が良い、しかし戦う力が無い。ジェイドには頭があって、力もある。私が見ない振りをしていただけで、本当は誰が見たって解ることだった。始めから解っていたはずだった。ジェイドは、あの『死霊使い』なのだと。

私は穴に嵌った。それでも、考えることは止めなかった。私には戦う力は無い。力は無くとも、私には奴に勝る頭脳がある。そう結論付けたところで、猛勉強と、少しでも人に追いつけるようにと体力づくりもした。した、けれど。全てが無意味に終わってしまった。私は軍に入るどころかブウサギ係で、ブウサギの飼育には学問は必要ない。体力は人並み、まるで意味が無い。最悪だった。

最悪だった、けれど。私は羨んだり恨んだりする裏側で、尊敬視していた。何でも出来る人だった。九歳でフォミクリーを開発したというのには、驚くしかなかった。何時の間にか私の目標はジェイド・カーティスという人物になっていて、気付いたときには私室で顔を歪めたものだ。それに気が付いたとき、私はジェイドが大好きだということに気が付かないわけには行かなかった。大嫌いだった。でも大好きだった。

暗い路地裏に、ふたり。私は血塗れ。私は溜息をつきたくなった。けれど息をするたび胸が痛い。ただ黙りこくっていた。


「……馬鹿ですね、貴方は。ブウサギくらい、そんなに見つけたければ陛下が直々に探しに行きます」


くだらない事をしましたね。そう言いたげな物言いに少し腹が立ったが、息絶え絶えな私が何を言ったって奴の皮肉に勝てるはずが無い。私はぼんやり程度に涙でぼやける視界をクリアにしたくて目を擦ろうと思ったが、血が付いた手では嫌だったので結局やめた。あんまりそれを放っておいてジェイドに辛辣な言葉を貰ってしまっては、仕舞いには零れそうで嫌だった。最悪だ。


「ほら、帰りますよ」
「……良い」
「訳の解らないことを言っていないで帰りましょう、陛下が心配しています」
「……ジェイドは」
「何です」


ジェイドは心配してくれないの。私がこんな状態になっても、どうだって良いの。陛下が心配しています、なんて。ピオニーがジェイドを遣したのか。私はピオニーに気に入られることがどんなに凄いことかとかそういうことはどうだっていいのだ。私は、私は貴方に見ていて欲しかった。私にとって、ピオニーが陛下と呼ばれる立場に居ても、単なる軍人のジェイドの方がずっと価値がある。目標であり、最愛の人。


「……どうだって、良かった?」


ジェイドが私を立ち上がらせようとして差し伸べた手を、私は握らなかった。体が痛い。でも心の方がもっと痛かった。私が死んだとしてもこの人は何も思わないし何も感じないし何もしてはくれないしその上きっとすぐに私という存在さえ忘れてしまって何事も無かったかのようにネクロマンサーと呼ばれ続け私という人間の名は一生その口から紡がれることは無く彼は居なくなる。私が死んでも何も無いのだ。少し荒くなった呼吸で胸が潰れるようだった。咳き込んで血が地面にぼたりと散った。

ジェイドは掴まれなかったその腕を私の肩の方へと伸ばして私の二の腕を掴んで、そうして立ち上がらせようと上へ引っ張り上げた。私は仕方なく立ち上がった。地面に血が広がっていた。足に力が入らなくて膝を折りそうになるも、ジェイドが支え、歩けそうも無い私を無理矢理負ぶった。痛かった。ジェイドの軍服には私の血液がじわりと広がっているに違いない。

ジェイドの肩口に頭を寄せて、力の入らない腕をなんとかジェイドの首へと回して、ジェイドが一歩進むたび、だらりとぶらさがった足が力なく揺れた。あの赤い眼に凝視され続けることで零れ落ちるのではないかと思っていた涙というものが、今度は彼の背の温かさで流れるのではないかと焦点の定まらない私は思っていた。ジェイドは何も答えない、だから私は余計に泣きたくなった。それでも泣いてはいけないのだ、本当に、死ぬときまでは。明かりがなく、まるで世界に私だけしかいないような、そんな気がして、思わずジェイドの服をぎゅっと掴んだ。今顔は見えないけれど、きっと彼は眉根を寄せて赤い眼を光らせている、そうしていっそ死んでくれればその辺に置いていけるのにだとか、そういうことを考えている。貴方はどうでも良いのですね。私を待っているのは、憎きピオニーと見飽きたブウサギだけなんて。あんまりだ、あんまりだよジェイド。

堪えきれなくなって結局私は泣きました。声は噛み殺して、嗚咽は止まらなかった。涙がジェイドの服に染みて、一生これが消えないで私が居たという証拠になればいいのにと、私は馬鹿なことを思っていた。無理だということは大昔から知っています、でもいつまでも諦めきれないんです、辛抱して辛抱してこれ以上ないってくらい我慢すれば、いつかジェイドも溜息をついて認めてくれるんじゃないかって、諦めきれないんです、馬鹿だと嗤われても構わないからどうか私を見てください。


「……っ……」


痛くて痛くてどうしようもなくて、絶対なんて言葉は踏み躙って奇跡を植え付けたかった。私の努力も何もかも犠牲にしても良い、この腕もこの足もこの脳だってくれてやるから、一瞬でも私のことを愛おしいと思ってください。思って、ください。それが、私の瞬きの瞬間で見逃してしまっても、それでも良いから一度だけ。


「泣くのはよしてください。陛下に怒られます」


何億キロと離れた場所から凄い勢いで飛んできた鋭い矢が、刺さったように。予想できたはずの言葉が、酷く痛かった。体の痛みで神経がもはや鈍っているんだ、だから頭も回らない。折角頑張ったのに、もうおしまいみたいだ、お父さんも、お母さんも、兄さんもごめんね。私は槍が一本この体を貫通したって生き延びられる気がする、でもこの人から発せられる一言で死んでしまうような気がする。


「どうだって良かったのなら、私は貴方を引き摺って帰ります。その前に此処へ来ません。貴方は何か勘違いをしているようですが、私は陛下に言われて来たわけではありませんよ」



いっそ私を殺してください。大声で涙を流す、わたしを。