白 銀 の 中 に 知 り 得 る よ り 先 に
外は凍てつくように寒い白銀の世界が広がっている。その美しい情景を眺めるわけでもなく、私は暖かいホテルの温かいコーヒーを啜り、何かに焦点を合わせることもなくソファに身を寛げている。
窓際には、血の目を持つ男がひとり。氷点下の外界を見つめている。そう、私とは正反対に。どこか遠くを見るその目には、憎しみと悲しみと怒りが眠っていることを私は知っている。
「外に出たい」
貴方が一度もこちらを向かないから。外ばかりを見ているから。と頭の片隅で思う。ぽつりと呟いたのをジェイドは聞いているのかどうか、無反応だったが一拍遅れて返事が返ってくる。
「死ぬ気ですか」
何故外に出るだけで死ぬという結論に至るのか皆目見当がつかない。いくら極寒の地と言えど吹雪いているわけでもなし。疑問を頭に浮かべると、それを察したのかジェイドは雰囲気だけで物を言う。貴方は無茶ばかりをするので恐らく適当にルークなんかを誘って無理難題をいつものように述べてお遊戯に付き合わせて結局自分だけ冷え切って風邪を引いて更に無茶をして拗らせて死ぬんです。ああ、ご尤も。よく解っているじゃないか。
「……貴方のような中年には解りませんよ」
棘のある言葉を投げる。お前のような中年には解る訳がないのだ！この若者の気持ちが！歳が離れていて自分になんか興味も持ってもらえないのにどうしたってお前に惹かれてしまうこの若者の気持ちが！この馬鹿な若者の気持ちが！解るわけがないのだ。毎日毎日姿を見るだけで舞い上がる私の気持ちなど。止めろ諦めろという私の気持ちなど。
第一印象は決して良くなかった。嫌味な食えない軍人でしかなかった。ただ、ただ。ただ、私はそこに潜む苦悩を見つけてしまったのだ。赤い両眼から。そしてたまに垣間見せる、真実の笑顔から。その苦悩が何であるかは決して私の知るところではなく、彼は私に一片の興味も無い。嗚呼、悲しきかな若者よ。
「中年とは頂けませんね。まだまだ現役ですよ」
ああ、またこんなことを言う、この人は。その年齢を充分に生かした転換はまさにこの人に相応しい。訳がわからない。必要となれば身体の節々が痛むと言い訳をして、中年と言われればまだ若いと言う。不明だ。意味が解らない。そして私には、何を考えているのかも、わからない。何も解らない。知りたくても、解らないのだ。
知りたい知りたいという欲望に逆らうのはなかなか難しいものだ。しかし好奇心で個人の領域に踏み入ってはならない。相手を不快にさせるのがひとつ。もうひとつは、聞けば自分が後悔するかもしれないということだ。
「……外に出たい」
微動だにせずこちらを向かない貴方に、見つけて欲しい。せめて存在を見つけて欲しい。視界に入れて欲しい。でも、もし見つけてもらえなかったら。そう考えると、出ようにも出られない。そう、後悔するから。興味を持ってもらえているかどうかということを知るためには、見つけてもらえないという後悔も一定確立で存在するのだ。確立は、五分。
外に出たい。外に出ていきたい。希望で終わる。泣きを見るのは御免だった。絶対に叶うことしか実行しない。泣きたくないから。そうやって諦めるのは、一番簡単だから。実現の種も潰えるけれど。
「出ればいいじゃないですか」
動かないジェイドが言う。そうだ、出ればいいのだけれど。誰が出るものか、叶わないのに。結論は初めから出ている。お前がこちらを向かないところから！
「出られないんですよ」
出られない。決して出ることは。だって惨めになるだけで、悲しくなるだけで、寂しくなるだけで、泣くだけだから。だったら目に見えない形で終わらせる。見つけてくれないという形が実現しない間に終わらせる。ほら、もしかしたら叶うというのも1パーセントだってなくなった。
ジェイドのいる窓際を見ると、雪がゆっくりと降り始めていた。白銀の街。ケテルブルク。此処で彼が生まれた。ずっと彼が見つめるもの。私がいる必要のないところ。
「どうしてです」
どうしてだと？そんなのはお前のような中年には解るまい！出たら惨めになって悲しくなって寂しくなって死にたくなって死ねなくて泣くだけだからだ！お前が私を見ないからだ！この若者の気持ちなど解るまい！若者の気持ちなど！
恋する、気持ちなど。
「……馬鹿みたい、だからです」
馬鹿みたい。本当に馬鹿みたいだ、そんなの。勝手に舞い上がっていただけだなんて、本当に馬鹿みたいだ。愚かだ。嫌だ。嫌だそんなのは。お願いだから、頼むからこっちを向いて。その目を見せて。そしていつか笑って。
私に。
「まあ、詮索はしませんが」
淡白すぎて出て行ったわけでもないのに涙が出る思いだった。どうでもいいのだ。一介の小娘など、あの中年にとってどうでもいいのだ。何故私はあんなのに惹かれた。間違いだ、人選を間違えたんだ、即刻修正しろ！あんなのにいつまでも恋をしていたら、人生が駄目になる！これは言い聞かせているのか、それとも自棄か。
ジェイドは一動もせずに雪を眺める。だれか奴を窓際から引き剥がしてください、そして私の方を向かせてください、出来れば気持ちも向かせてください。切望する。馬鹿馬鹿しい。本当に。
「貴方は今私の方を見てコーヒーを啜っている。情けなく泣きそうな顔をしている」
は？
疑問符を頭に浮かべることは得意だ。ジェイドに出会ってから、ずっと。訳の解らない言い回しにはどうにも馴染めない。ああ、何を考えているのか解らない。皮肉だ。私には彼がわからないけれど、彼には私のすることが解る。していることも、すべて。確かに私は今ジェイドのいる窓際へ視線を向けていて、温かいコーヒーを啜っている。でも、だからそれが何だって？
「見るまでもありません、貴方のことは。解ります。全て。もう随分と前から」
つまりどういうことなのか、結局私には見当がつかない。解らない。せめて、せめて顔を見せてくれれば解るかもしれないのに。解るかも、しれないのに。踏み込むことは、許されないのだ。
ジェイドが漸く動いて、ついに私の方を見た。
「私はとっくに貴方を見つけていると、そういうことです」
言葉が出ない。何か言えという脳からの命令はどこにも伝わらない。ああ、泣いてもいいですか。これは信じてもいいですか。信じるしかない。だって私はジェイドが言うことを決して疑えないから。あの悲しみの目には、逆らえないから。裏切っては、いけないから。
やっぱり私の人選に誤りなどなかったのだ。これで人生が良くなるかどうかは、解らないけれど。それも一定確立、その確立は五分。
「責任はとって頂けますね」
ジェイドがさも当たり前のように言い、私の方に歩み寄る。目の前まで来るとこちらに手を伸ばして頭を撫でるようにして滑らかに頬まで手のひらを滑らせる。命にもまさりて惜しくある物は、見果てぬ夢のさむるなりけり。命より惜しいのは、夢の途中で目が覚めてしまうことだ。
「」
唇が重なる。
直前に呼ばれた名前が宝物のように思えるのは、さてどうしてだろうか。愚問である。そんなのは、ジェイドに読んでもらえたからに決まっているじゃないか。触れた唇が自分のものじゃないような気がするのは、さてどうして。解るだろう、それはジェイドの唇が触れたからだ。単純すぎて笑えるくらい、明快だ。迷宮の彼方へと葬られるはずの答えが、出てしまった。
白銀の中で色を示さなくても、彼は私を見つけてくれた。
「泣かないでください」
「……泣いてない、ですよ」
たった今私が見ているこの幸せな夢は、現実らしい。