何かとても暖かい気持ちになっていたのを覚えている。 てのひらが、髪が、優しいものに触れていたような気がする。 誰かの微笑みがそこにはあって、途轍もなく満たされていたはずだった。 目が覚めて、ふとそう思ったが、それがなんだったかなどと考えてもうまく引き出しを引っ張り出せなくて、うんうん悩んだ末に、答えを探すように視線を彷徨わせれば、それはすぐ隣にあった。 「、さん?」 起きたばかりの掠れた声が喉から出たが、それによって彼女が起きることはなかった。彼女は座って俯いたまま器用に眠っているらしかった。耳を澄まさないと解らない、静かな寝息がひどく愛おしかった。 眠っている顔は、初めて見た。休み時間に机に伏せているのは、度々見たことがあった。ただ、顔は見せまいとするように腕に顔をうずめていたので、結局それを今の今まで見ることはなかったのだ。 綺麗だ、と思った。特別に白いわけじゃないけれど、その肌に触れてみたいと思った。その意志のまま手を伸ばそうとして、重みを感じたのでふと目を右手に向けると、自分の指に彼女の指が絡まっていた。ああ、これか、と最初の疑問に結論付ける。彼女が自分の手を、ずっと握っていたらしい。胸が苦しくなった。しあわせだと思った。この幸せを、彼女が同様に感じてくれているかというと、はっきり言って望み薄だ。というか、寝ているわけだし、今はさっぱり何も感じちゃいないだろう。 「…………はあ」 無性に何か話しかけたくなったが、そんなことをして起こしてしまいたくはないので、溜息ひとつ、とりあえず起床しようと上体を起こした。寝転がっていた時は気付かなかったが、彼女の片手が不自然に枕元に投げ出されていた。多分、この手が頭を撫でていたのだろう。特別何か考えたわけではないが、彼女のその手に触れてみて、それからその冷たさに驚いた。考えてみれば布団は暖かくとも部屋は寒い。 途端に何がなのか解らないが失敗したなどと思い始め、名残惜しいが彼女の手を解いて、布団から這い出ると、まだ温かいその布団に彼女を寝かせた。しっかり布団を掛けると、暖かそうに、布団を恋しがるように、彼女が身じろぎをした。死んでも良いと思った。 そうして彼女の表情を眺めていると、自分の体調の変化に気が付いた。恐らく風邪はもう大丈夫だろう。なかなか悪くない。ただ寝ていればこうなったのだろうが、彼女が居ると、彼女のおかげのような気持ちになる。ともかく治ってよかった。ただ、彼女が代わりとばかりに風邪をひいていないかが心配だった。 「おかしいですね」 小声で自嘲気味に呟いた。眼前に彼女が居るとはいえ、思考がすべてそれ中心で働いているという事実に自分はつくづく馬鹿だと思った。それから、こんなに想っているのだから、ちょっとくらい触れてもいいだろうという筋の通らない考えが頭を過ぎった。同時に手を伸ばしかけていたが、触れて良いわけがないと苦笑してやめた。彼女は、自分が手を握るのや頭を撫でるのを欲したようには、触れられることを必要としないのだろう。強いわけじゃなく、それはただの無関心だった。 一方通行というのは、辛いものなのだろうか。事実くるしいことがあるのは身をもって知っているが、それに増して、あまやかな幸福が存在している気がする。それは彼女を想い過ぎだからだろうか? ところで、傍らでずっと彼女を見ていたいし、それによって忘れかけていたが、今日はSOS団の集まりがあるので、とりあえず彼女が眠っている間に着替えることにした。何を着ようか、と初めて考えた。彼女が今私服だったなら、それに合うようなのをなどと思った。馬鹿げている、とも思った。だからといって、彼女に対する好意を消せるわけでもないのである。 ―――そこに彼女がいるのは、とてもしあわせなことであって、運が味方しただけだ。 知っている。知っている、そんなことは。割り切れるかどうかを問われれば、人間そう簡単に出来てはいないわけであるが。舞い上がって何がいけないのだろうか。テーブルの上のあのコピーたちは、きっとゴミ箱になんていかない。 「、……さん」 名前を呼んでみる。呼び捨てにしようとして、でもしたら怒られるような気がして、敬称をつけた。苦笑するしかない。ぐっすり眠っている彼女はそれっぽっちで起きるはずもなく、返答はなかった。それでいい、と思った。それから、自分なんかが名前を呼んじゃいけない気がした。それも、それでいい、と思った。彼女に何をするのも許されないのかもしれない。そうであっても、それでも良い、と思った。きっとそうであっても、自分は名前を呼びたくなったら呼んでしまうし、触れたくなったら触れてしまうだろう。そういう奴なのだと知った。 今自分は、いつか、同じ事を思えるようになると、信じてはいけないのだろうか。 誰に答えをもらうつもりで、誰に問いかけているのかなんて、知るはずもなかった。ただ、疑問ばかりが浮き上がって、全ての行動が制限付きになっていって、でもだからやめるなんてこと、無理だ。 許されなくても良いと思った。それで良いと思った。きっと仮に罪だったとしても、許されなくても、どっちにしたってその決まりは破ってしまうのだ。どうせやめることなんて出来やしなくて、許されることなんてなくて、でも、だから、それでも自分は、 「…………好きです」 あなたのことが。 ―――But it is impossible to stop it. 前の話 - 戻る - 次の話 |